【木田啓介さん】「2つの事件」についての詳細の報告


<過去記事>

中学生のかばんに手紙 ストーカー行為繰り返した疑いで42歳男逮捕

<以下、ストーカー規制法違反について・木田啓介>


★警視庁ストーカー対策室 巡査部長 安孫子 昇平 刑事 との会話と状況の記録(一部)

2016年11月17日(木)午前6時45分、杉並区成田東の自宅に、安孫子昇平刑事をはじめ、巣鴨警察署の方々5~6名が来る。部屋の中に入り、家宅捜索。私の携帯電話、私のパスモ、私のパソコン、私の手帳等を押収する。その後、私は路上に止めてある自動車に連れて行かれ、車中で逮捕。そのまま巣鴨警察署まで移送される。午前8時台に巣鴨警察署に到着する。私の取り調べ担当は安孫子昇平刑事。生活安全課内の取調室にて、安孫子氏は私との会話をもとに、先ず私の身上調査書、次に私の弁解録取書をノートパソコンに記録していく。取調室のドアは常時開放されており、並んだ事務机と警察官の方々、生活安全課の様子が見える。弁解録取書を取り終わったのは午前10時台。弁解録取書での最後の会話記録。

安孫子氏「あなたは純粋な恋愛だと思っているのか」
私「純粋でない恋愛は不潔で卑しい。」
安孫子氏の顔色が変わる。
安孫子氏「最後に何か言いたいことはあるか?」
私「私は○○ちゃんを拘束したり監禁していないのに、こうして逮捕されることによって私が拘束され監禁されるのは理不尽であるし不当だと思います。」
安孫子氏のパソコンを打つ手と指がプルプルと震え出す。安孫子氏は立ち上がって言う。
安孫子氏「あなたには私もいっぱい話したいことがある。明日楽しみに待ってろよな!」

安孫子氏は席を外し携帯電話でどこかに連絡を取っている様子。しかし結局、安孫子氏とはこの後11月21日(月)まで会うことはなかった。私は取調室で3時間以上待たされる。やがて巣鴨警察署の方の一人が私のもとに来て「巣鴨警察署は留置場がいっぱいだから他を探している。」と言う。取調室のドア越しに、立ってヒソヒソ話しをする2人の警察官が現われ、私の方をチラチラ見ながら嘲笑う。その後、巣鴨警察署の方々と共に車で麴町警察署へ移動。15時台に巣鴨警察署の留置場ではなく麴町警察署の留置場に入る。私はこの時、翌日は安孫子氏の取り調べがあるのだろうと思っていた。

翌日11月18日(金)午前9時27分、初回の検事取り調べ(新検調べ)があると言われ、警察官の先導のもと、麴町警察署留置場から護送車の待つ駐車場へ階段を下りる。階段を下りて外が見えると門扉越しに多数の報道機関の方々がカメラを向けて待っており、一切音を立てず、フラッシュなしで私を一斉に撮影。私を先導する警察官の方は、報道機関の方々が撮影し易いように、護送車の前で無言で一時停止をした。護送車の窓は通常、中の様子が見えないように黒フィルムがはられているのだが、この時の護送車の窓は中の様子がよく見える、黒フィルムのはられていない透明な窓だった。検察庁には警視庁管轄の全ての留置場から、その日検事取り調べや裁判のある方々が集まって来るのだが、この日、巣鴨警察署から
来たのはたった2名だった。検察庁から麴町警察署留置場に戻ったの18時30分頃で、その日は安孫子昇平刑事の取り調べはなかった。

また安孫子昇平刑事との取り調べはその後、11月21日、22日、25日、27日、28日、29日、12月4日の7回あったが、その度毎に取り調べだけにとどまらず、「あなたの行為は紛れもなくストーカー行為だ。」という内容の発言を繰り返し、私に対して執拗なすり込みを行った。

★安孫子氏との会話と状況の記録から私が思うこと

安孫子氏は私の実名と肖像を報道機関に晒す判断と決定をした実行責任者である。

「安孫子氏『あなたは純粋な恋愛だと思っているのか』
私『純粋でない恋愛は不潔で卑しい。』
安孫子氏の顔色が変わる。」
ここから、安孫子氏は純粋な恋愛というものを全く経験したことがないか、純粋な恋愛というものを全く認めないか、あるいは絶対に認めたくない人だということが窺える。

「安孫子氏『最後に何か言いたいことはあるか?』
私『私は○○ちゃんを拘束したり監禁していないのに、こうして逮捕されることによって私が拘束され監禁されるのは理不尽であるし不当だと思います。』
安孫子氏のパソコンを打つ手と指がプルプルと震え出す。安孫子氏は立ち上がって言う。
安孫子氏『あなたには私もいっぱい話したいことがある。明日楽しみに待ってろよな!』」
ここから、安孫子氏が私に対して激怒していること、怒りと憎悪の個人的感情に強く支配されていることが窺える。

そして11月18日に安孫子氏が私を取り調べに来なかったことにより、私は前日の安孫子氏の「あなたには私もいっぱい話したいことがある。」という言葉が嘘であること、「あなたには私もいっぱい話したいことがある。明日楽しみに待ってろよな!」で言いたかったことは、「私はあなたの逮捕と送検日時・場所の情報を七社会・警視庁記者会・ニュース記者会に知らせるので、明日あなたは多数の報道機関の方々に撮影され報道されるだろう。覚悟しておけ。」という意味であることが分かった。
ここから、安孫子氏が私に対する怒りと憎悪の個人的感情を充足させる目的で、私を社会的に抹殺しようとしている意図が窺える。

「『あなたの行為は紛れもなくストーカー行為だ。』という内容の発言を繰り返し、私に対して執拗なすり込みを行った。」
ここから、安孫子氏が私に対する怒りと憎悪の個人的感情を充足させようとしていることが窺える。

★東京区検察庁 高橋 俊輔 検察官事務取扱検事 との会話と状況の記録(一部)

私の取り調べ担当検事は高橋俊輔氏。高橋検事の取り調べは11月18日、24日、30日、12月5日、6日の5回あった。2016年11月24日(木)15時45分から16時30分まで2回目の検事取り調べがあり、その際、高橋検事は次のように言った。
高橋氏「18歳未満は恋愛禁止。法律に規定がある。」
私は本当にそんな法律があるのかと思い、ずっと気になっていたので、12月6日の5回目の検事取り調べの時に思い切って高橋氏に聞いてみた。
私「検事さんは以前、18歳未満は恋愛禁止だとおっしゃっていましたが、その根拠となる法律は何ですか?」
高橋氏「東京都の条例で決まっている。」
私「民法では女性は16歳で結婚できますよね?」
高橋氏「親の同意がなければならないので、それは事実上難しい。

また、高橋検事は取り調べの際、次のように発言した。
「今回の件は、カードを入れたこと自体が、処罰の対象となっている。」

★高橋氏との会話と状況の記録からに私が思うこと

高橋氏は私を2016年11月17日(木)~12月7日(水)まで拘束・監禁し、私についての公訴を提起し、略式命令を請求した実行責任者である。
高橋氏の「18歳未満は恋愛禁止。法律に規定がある。」「今回の件は、カードを入れたこと自体が、処罰の対象となっている。」という発言から、高橋氏は年齢によって条件づけられた愛を強制し、無条件の純粋な愛を弾圧しようとしていることが分かる。この発言は行為の弾圧ではなく、思想の弾圧である。


<以下、未成年者誘拐について・木田啓介>


以下の文章は、私が20101218日付けで、私の未成年者誘拐事件を報じた各報道機関に宛てて書いた手紙の抜粋です。

《手紙の抜粋》

拝啓

寒冷の候、貴社ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。私は以前、1112日付で貴社宛てに記事提供の手紙を書きました木田啓介です。私について、刑事事件としての処分が担当の検事から告知されたので再度手紙を書きます。

 私は928()に未成年者誘拐罪で杉並警察署に逮捕され、翌日929()に釈放されました。そして杉並署は129()に私の事件について書類送検し、私は翌日1210()に担当の検事と面会し、処分が告げられました。私の処分は起訴猶予で不起訴です。

 担当の検事によると、私の行為は刑法224条「未成年者を略取し、又は誘拐した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。」の構成要件に該当し外形的に犯罪は成立するそうです。外形的に犯罪が成立するという事は、刑法224条の「誘拐」について判例が「欺罔又は誘惑により他人を自己の実力支配内におき、その居所を移させる行為は誘拐にあたり、甘言により人を惑わしその判断を誤らせることは誘惑にほかならない。」としている事により、210()の「よかったら、僕の家この近くだけど来る?」と「もしまた親に家を追い出された時はいつでも来ていいからね」というK君に対する私の言葉は、K君を惑わし彼の判断を誤らせる甘言だと解釈された事になります。それによって警察の私に対する逮捕は正当とされました。事件の内容と詳細については後述しますが結果として、警察の捜査と検証により、私の行為は悪意ではなく善意であると検事に認められ、起訴猶予で不起訴とされました。

 私は自分の身に降りかかった、この、逮捕から不起訴に至るまでの事件を通して、気づかされ、否応なく考えさせられた事が主に2つあります。私はこの事について是非、記事に取り上げて頂きたいと思い、貴社に手紙を書きました。

それは第一に、私自身はキリスト者ですが、自分の内において信仰と社会常識とが対立していて、どちらを選ぶか選択を迫られたという事です。具体的に言うならば神の法律である聖書の言葉「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイによる福音書185)と人間の法律である刑法224条とが対立し、私は神の法律を選びこれに従ったという事です。そして今後、同じような局面に遭遇した場合、たとえ人間の法律で有罪とされたとしても、私はこれからも神の法律を選びこれに従うだろうという事です。

第二に、私が親の監護権を侵害しているとされた事から、現在の日本の法律は、親の法益や親の権利というものを過剰に保護し、その反面、子供の法益や子供の権利というものを全くと言っていいほど無視しているという事です。この考え方は法律だけではなく、法律の存在を根底で支えている私たち日本人の常識や固定観念や思考をも支配しているという事です。この考え方を端的に言えば、子供は親の所有物・親の私物であるとする考え方です。後で詳述しますが、私は、この考え方は大変な間違いであり、一歩間違えると取り返しのつかない大変危険なものであると認識しています。とりわけ児童虐待や親殺し・子殺し等の痛ましい事件が社会問題化している現在において。

 私はK君が自分の家に来た事について、K君のご両親に連絡せず、その結果ご両親を大変心配させてしまった事を深く反省しています。しかし他方において私はK君の自由意思と選択を尊重し、彼の自己決定権を決して奪わなかったとも自負しています。しかし担当の検事は、この私の自負に対して「子供の意思は関係ない。子供には判断能力がないから」と言いました。全くと言っていいほど子供の法益や子供の権利が無視されてはいないでしょうか?

 これから私は事件について詳しく述べます。先ず幾らかの参考になると思うので、私についての情報を提供した後、事件の内容と事実をお話しし、そしてこの出来事の刑事事件としての発生から終結に至るまでの経過を詳述します。そして最後に貴社に記事として取り上げて頂きたい私の考えを述べます。

この手紙に引用した聖書の本文は、断わりのないものは日本聖書協会が発行した『聖書 新共同訳』によるものです。聖書のギリシア語原典は、旧約聖書についてはドイツ聖書協会が発行した『SEPTUAGINTA(七十人訳聖書)』、新約聖書については同じくドイツ聖書協会発行の『NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27.revidierte Auflage(ギリシア語新約聖書 第27)』によっています。ギリシア語原文からの日本語訳は私自身による訳です。

★事件の内容と事実

 私の事件について、記憶している事実と内容をお話します。

 210()、雨の夜19時~20時頃、私は外出から帰宅する途中、成田東1丁目11番近くで1人の小学生位の男の子が路上に立っているのを見ました。その男の子は雨の降る中、傘も持っていなく、靴も履いていませんでした。ただフード付きの上着を着て、フードをかぶり、携帯ゲームをしながら、靴下のまま雨の路上に1人で立っていました。私は気になりましたが、その子の前を通り過ぎ、一旦部屋に帰りました。しかし、やはり私はその子の事が気になり、男の子の立っていた場所まで傘をさして歩いて行ってみました。私がその子に「どうしたの?」と聞くと、その子は「親に家を追い出された」と答えました。私は、その子がこのままだと雨と寒さで風邪を引いてしまうし、かわいそうだと思って「よかったら、僕の家この近くだけど来る?」と聞きました。するとその子は頷いて私の後について来て私の家に入りました。

 私が、なぜ男の子を自分の家に入れたかというと、靴も履かずに家を追い出された事を見ると、その子のご両親は、すごく厳しいのだろうと思い、行き場のなくなったその子に私の部屋を安心してくつろげる居心地のよい居場所として使ってもらおうとしたからです。また、なぜ交番に連絡しなかったのかというと、警察を介せばその子は直ちに親元に帰されてしまうだろうと容易に想像されたので、それよりはむしろ、ご両親のほとぼりが冷めるまで暫く私の部屋にいてもらった方が、その子にとって良いだろうと思ったからです。

 そして、その子を受け入れた最大の理由は、私自身が主イエス・キリストを信じる者、キリスト者であるからです。イエスは弟子たちに対して次のように語っているからです。

「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイによる福音書185節、並行箇所としてマルコによる福音書937,ルカによる福音書948節 参照)と。

 その子と私は部屋に入り、私はその子の冷たくなった足を拭きました。その子の靴下は雨に濡れ、泥で汚れていたので軽く洗いアイロンがけをして乾かしました。その子はこたつで暖まりながらずっと携帯ゲーム機で「イナズマイレブン」というサッカーのゲームをしていました。そしてその子の名前がK君だという事を知りました。私が「なんで家を追い出されたの?」と聞くとK君は「ただいまをちゃんと言わなかったから」と言いました。そして家にはまだ鍵がかかっていてもう少し時間が経てば入れるというような事を聞きました。私が「何時頃帰る?」と聞くと「10時頃帰る」と言いました。そして10時になって私とK君は私の家を出ました。家を出る時、私はK君に「もしまた親に家を追い出された時はいつでも来ていいからね」と言いました。私はK君に靴を貸してあげ、傘をさしてあげてK君の自宅前まで徒歩で送りました。到着したら靴を返してもらいK君は自宅の中へ入り、私は自分の部屋へ戻りました。なぜK君のご両親に会わなかったのかというと、夜分遅く就寝中に起こすのは失礼だと思ったから、またK君が知らない人の所にいたという理由でご両親にまた怒られてしまうのではないかと思ったから、そして以後K君がご両親によって「知らない人の所に行ってはだめ」と強く禁止されてしまい、K君がもし私の家に来たいという意思を持った場合、その意思が尊重されなくなってしまうのではないかと思ったからです。

………

 この出来事があってから9日後、219()の夜の事です。19時頃に私がアルバイト先から帰宅し、門扉を開けて自転車を置き場に停めた時、私の部屋の前にK君が携帯ゲームをしながら私の帰りを待っているのが見えました。K君は門扉を開ける音で私が帰って来た事に気づき、私の方を向いて手を振りました。私もK君に手を振り返しました。私は階段を登り、自分の部屋の前でK君に「どうしたの?」と声をかけました。するとK君は「また親に家を追い出された」と言いました。私はまたK君がご両親に厳しく怒られたのだろうと思い、事情を察して「よかったらどうぞ」と私の部屋の扉を開けました。そしてK君と私は部屋に入りました。

 私がなぜK君を自分の部屋に受け入れたかというと、行き場のないK君に自分の部屋を安心してくつろげる居心地のよい居場所として使ってもらいたいと考えたからです。また私自身がキリスト者であり、主イエスは弟子たちに対して「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と語っているからです。

 K君は、まだ夕食を食べていなかったため、作り置きしていたカレーライスを夕食として一緒に食べました。その後、私はK君をお風呂に入れてあげました。それ以外はK君はずっと携帯ゲーム機で「イナズマイレブン」のサッカーゲームをしていました。私はそのゲームをK君に教えてもらいながら、ずっと眺めていました。

 10時頃になりました。私はK君に「親が心配していると思うよ。そろそろ帰る?」と言いました。しかしK君はずっとゲームをしたままで何も答えませんでした。どうやら、まだ家には帰りたくないという気持ちが伝わってきました。「もう10時だよ。家に帰らなくて本当に大丈夫なの?」と私が言うと、K君は頷きました。私が「じゃあ、ここに泊まっていく?」と言うとK君は頷きました。そして、その晩私はK君の意思を尊重し、彼を私の家に泊めました。

 その次の日、220()の朝、私とK君は朝食に食パンを一緒に食べました。K君は相変わらず、ずっとゲームをしていました。「イナズマイレブン」のサッカーのゲームをしている時は私はゲームを眺め、「マリオブラザーズ」のゲームをする時はK君が「一緒にやろう」と言うので私も一緒に遊びました。

 お昼近くになり、私が「親が心配してると思うよ。K君そろそろ帰らないといけないんじゃない?」と言うと、K君はずっと黙ったままゲームをしていました。K君にとって私の部屋はすっかり安心してくつろげる居心地のよい居場所になっているようで、まだ家に帰りたくないようでした。私が「家に帰らなくて本当に大丈夫なの?」と言うとK君は頷きました。私は自分の部屋で安心してくつろいでいるK君を見て、どうしても強制的に「帰れ」とは言えませんでした。そして私は「まだここにいたい」と思っているK君の意思を可能な限り尊重しようと思いました。

 昼食は、お好み焼きとご飯とみそ汁を私が作り、一緒に食べました。その後とうとうK君の携帯ゲームの電池が尽き、ゲームができなくなりました。私は任天堂ゲームボーイアドバンスSPを持っていたのでK君に「『グラディウスジェネレーション』というゲームがあるけどやってみる?」と言うとK君は「うん、やってみる」と言いました。私がゲームのやり方をK君に教えるとK君は今度、そのゲームをずっとやり続けました。

 夜になり、夕食は私がベーコンとしめじのスパゲッティを作り、一緒に食べました。食べながら私はK君に「K君がずっとここにいたい気持ちはよく分かるけど、明日の朝、僕は用事(教会の主日聖餐式)があって8時に出かける予定があるんだよ。だからK君は明日の朝8時までしか、ここにいる事はできないよ。だから何時に帰るかK君、今決めてね」と言いました。するとK君は「じゃあ明日の朝6時に帰る」と答え、私は「分かった」と言って、K君の自身の判断と決定を尊重しました。それから私はK君をお風呂に入れてあげ、K君はその後またずっとゲームをやり続けました。10時になったのでK君と私は寝ました。

 次の日、221()の朝6時にK君は起きて一人で自分の家に帰りました。

 以上が私の事件についての、私の記憶している事実と内容です。

★事件の発生から終結に至るまでの経過

 次にK君が私の家に来た出来事について、刑事事件としての発生から終結に至るまでの経過を私の立場から、また私の知る限りの範囲において、お話しします。

 928()の朝730分頃、突然立花さんを含む4名の杉並警察署男性警官の方々が私服で私の部屋に家宅捜索のために訪れました。扉をノックする音が聞こえたので扉を開けると1人の警官の方が警察手帳を私に見せ、もう1人の警官の方が裁判所からの家宅捜索許可状のようなものを私に見せ、強制だからという事で私の部屋に上がり込みました。そして部屋の内部の状況を何枚も写真に撮り、また日常生活に必要なもの、手帳や携帯電話やパソコンやICレコーダー等を強制的に押収しました。その後、私は任意同行で杉並警察署に連行され、取り調べを受けました。取り調べの最初に私と話したのは星尾さんという警官で、その次に私の主な取り調べを担当したのは千明さんという警官でした。千明さんの取り調べは非常に紳士的でした。私はこの日、12時から2230分までアルバイト勤務があったので、11時には帰りたいと言うと認めてくれました。11時になり立花さんと星尾さんが私を署から家まで車で送ってくれるという事になりました。星尾さんは私に対して「自分のケツ、自分で拭いてもらうから」と言い「今日、アルバイトに行ったら、お店や会社の人に当分の間勤務できなくなるから、その事を伝えて欲しい。この後、逮捕状を裁判所に請求するから、それが出たら、君をバイト先まで迎えに行く。5時頃に行くから」と言いました。自分の部屋まで送ってもらった後、私は部屋ですぐにアルバイトに行く支度をし、時間がないので食事も摂れず、すぐにアルバイト先に向かいました。門扉を開けると先程の立花さんと星尾さんの車が私を待ち構えていました。星尾さんが車から出てきて「雨が降っているからバイト先まで送って行くよ」と言いました。私は断り切れずにしぶしぶ車に乗りました。そして私は彼らの意図がすぐに分かり、「この人たちは私が逃亡する事を疑っているんだろうな」と思いましたが、口に出しては言いませんでした。

 店まで送ってもらうと私はすぐに上司で社員のCさんに電話で連絡し、緊急事態が発生したため今日の17時以降シフトに入れなくなり、また当分の間アルバイトに勤務できなくなってしまったので、私が抜けたラインについて代わりの人を派遣して欲しい旨を伝えました。そして同じ内容を私と同じアルバイトのTさんにも伝えました。

 12時に勤務を開始して間もなく1230分頃に星尾さんがお客として来店しパンを購入され、私に「会社の人に連絡した?逮捕状すぐに取れそうだから、もうすぐ迎えに来るよ」と言いました。私は「連絡はしましたが、代わりの人がいないので、もうすぐは無理です。17時でないと無理です」と答えましたが星尾さんは黙ってそのまま帰りました。その後1330分頃に星尾さんと立花さんともう1人の3人の警察の方が来店され「逮捕状が出たから今すぐ来て欲しい」と言いました。その時私は1人で営業していたので「代わりの人がいないので今すぐは無理です」と答えましたが「逮捕状は強制なので、それはできない」と言って認めてくれませんでした。私は困り果てて、すぐCさんに連絡し「今、警察の人が店に来ていて私を連れて行こうとしていますが、そうすると店に営業する人が誰もいなくなりますけれどもいいですか?」と言いました。するとCさんは「それはダメだ。困る」と言いました。それで私は警察の方に「今、上司のCさんに電話をつないでいますが直接事情を話して頂けますか?」と言いました。しかし警察の方は拒否しました。私は14時出勤のはずだったアルバイトのMさんに無理を言って早出をしてもらい1345分に来てもらいました。それなので結局、本来は2人で営業するはずなのですが1345分に私は、その場の営業をMさん1人に任せ、警察の方に連行されて車で杉並署に行きました。

 車の中で星尾さんは私に逮捕状を見せました。杉並署に着くと、すぐに供述調書の作成が始まりました。最初に話したのは星尾さんで、私が「先ず逮捕の容疑がかけられている刑法の条文を教えて頂けますか?」と言うと、星尾さんは「それは、これから取り調べる事なので、今、あなたに教える必要はない」と言って教えてくれませんでした。私の供述調書の作成を担当したのは千明さんで、威圧的・脅迫的な態度は一切なく、とても紳士的でした。私は8ヶ月近く前の出来事についての、すでに薄れかけ断片的になった記憶を拾いながらK君が家に来た時の事を話しました。その後17時頃、杉並署の留置場に入れられ、その晩はそこで過ごしました。留置場の中で私はK君が家に来た時の事をもう一度じっくり落ち着いて思い起こしました。記憶を丁寧に整理している内に私は先程千明さんに対して記録した供述調書で事実と異なる間違った事を言ってしまったと気がつきました。

 翌日929()15時頃、私は再度留置場から取調室に呼ばれ、千明さんと面談しました。その際、私は昨日記録した供述調書に事実と異なる間違った事を言ってしまったと告げました。そして正しい事実を改めて説明し、その場で簡略なメモを記録しました。そして私は千明さんに対して「なぜ8ヶ月近くも前の2月の出来事が、ようやく今になって刑事事件になるのですか?」と聞くと、千明さんは「それは答えられない」と言いました。その後再び留置場に入れられました。

 19時頃、私は取調室に呼ばれ、突然釈放されました。釈放にあたって「君の身柄を拘束しておく必要がなくなった。今後、改めて供述調書を作成し書類を揃えた上で検察に送る。君は在宅勾留で検察送致という形になるので連絡する。君はアルバイトを続ける事はできる。しかし連絡を受けたら予定を調整して欲しい」と説明を受けました。

 それから私はすぐにアルバイト先の店に行きました。私が逮捕された情報はアルバイト先にすでに広まっていました。その日のお昼頃、店に直接フジテレビの人が来て私についてアルバイトメンバーにインタビューをしたとの事でアルバイトメンバーはパニックになっていました。私はメンバーに対して「心配をかけて申し訳ない。もう大丈夫だから、安心して」と言いました。また上司のCさんに電話をして「今、私は警察から解放されたのでアルバイトに復帰できます」と伝えると、「いや、それは会社としてどうかな?まずいんじゃないかな?木田君が逮捕された事は会社中に広まっていて、大きな衝撃で話題になっているよ。木田君の記事、インターネットのニュースで出ているよ。知っている?木田啓介で検索すると記事が出てくるよ」と言いました。その時初めて私は、自分の事が報道機関に実名で公表されている事に気がつきました。それで私はCさんに事件の内容と事実を詳細に伝えました。Cさんは私を信じてくれましたが、とりあえずアルバイトはすぐに復帰ではなく、暫く保留という事になりました。

 私の知る限り、私に関する事件を実名で報道した機関は下記の通りです。

【新聞】

・東京新聞 929() 夕刊 9

【テレビ】

NHK 929() 昼のニュース全国版

・フジテレビ 929() ニュース

【インターネット・ウェブサイト】 929()930()

FNNフジニュースネットワーク www.fnn-news.com

・産経新聞msn産経ニュース http://sankei.jp.msn.com

BIGLOBEニュース

・時事ドットコム

gooビジネスEX社会

 103()の夕方、私は杉並署に行き、押収品の内、携帯電話とラジカセのみを返却してもらいました。返却の担当は立花さんでした。私は立花さんに「報道機関に私の事件が実名で公表されていますが、警察の中の誰が情報の発信元なんですか?」と聞くと、立花さんは「俺ら下っぱには分かんねえよ。知らねえよ。上の人が決めたんだよ。分かるだろ。俺らだってやりにくいし、あんたも事実と違う事が書かれて嫌だろ」と言いました。

 その夜、携帯電話を返された事から、私は店のアルバイトメンバー全員が加入しているメーリングリストにメールで私に関する事件の内容と事実を詳細に書いて全員に送信しました。そして私はCさんから許可を得て104()からアルバイトに復帰しました。

 107()9時から杉並署で再度千明さんのもとで改めて供述調書を作成しました。千明さんは「この件に関しては刑事裁判にならないだろう。起訴はないだろう」と言いました。

 1016()10時から杉並署で私の肉親のNとEが星尾さんのもとで私についての供述調書を作成しました。

 1019()に私は杉並署に電話し千明さんに「K君のご両親に対して私はK君が自分の家に来た時の事について説明する責任があると思うので、お会いしてお話ししたいと先方にお伝え願えますか?」と言いました。すると千明さんは「伝えておくよ」と言いました。

 1028()19時から警察の方の配慮により杉並署においてK君のお父さん・お母さんと、私・N・Eとの間で面会する機会を持ちました。NとEは「このような事件を息子が起こしてしまったのは、全て息子を育てた親の私たちに責任があります。大変申し訳ございませんでした」と先方のご両親に謝罪しました。私は先方のご両親に対し「2月上旬頃の雨の日の夜と、219日の夜から20日、21日の朝にかけてK君を自分の部屋に入れたのは確かに事実です。ご両親に連絡をせず大変な心配をおかけしまして大変申し訳ございませんでした。特に220日の土曜日には、お父さんとその会社の人たちも総出でK君を探し回ったと千明さんから聞きました。本当にご両親に対して心配をかけたと反省しています。本当に申し訳ございませんでした」と謝罪しました。そして、その場でNとEは私に対して「今は子供にとって自分が知らない人であるならば子供に声をかけてはいけないという教えであり、たとえ困っている人がいたとしても、たとえ倒れている人がいたとしても、決して自分1人で助けてはいけない。必ず警察や関係諸機関、第3者に言うべきであり、誰にも連絡せずに自分1人で行ったのは啓介の欠陥であり、非難すべき点である」と言って叱責しました。先方のご両親は、とても理解のある良心的で寛大な方たちだと思いました。なぜなら自分の子供に対する誘拐容疑で逮捕された者の面会要請など普通は拒否するはずなのに希望に応えて私に会って頂いたからです。また面会の最中、先方のご両親からは私に対して憎悪や敵意のようなものは全く感じませんでした。そして事件の後、K君のお父さんはK君を連れて2回程、私の家を訪ねていらしたとの事でした。そして2回とも私が不在だったので今回、警察に届け出る事になってしまったとの事でした。そして先方のご両親によるとK君は今、大変元気にやっているとの事なのでとても安心しました。面会が終わった後、星尾さんが、「これから先は私たち警察が良い方向に行くよう所定の手続きを取らせて頂きます」と言いました。その後、先方のご両親は星尾さんにより別室に案内され、私とNとEは帰りました。

 116()に私は杉並署に電話をしました。K君のご両親と面会してから、警察からの連絡を待っていても一向に連絡がなく、また私の押収された物も一向に返って来ないので日常生活にとても不便を感じていたからです。電話には星尾さんが出られ「実は、あの面会の後、先方のご両親は被害届を取り下げるかどうかの決定についての態度をまだ表明していない。警察は今、先方のご両親からの連絡を待っている状態にある。警察から先方のご両親に回答を急ぐように迫ると事態は悪くなる可能性がある。押収品については検察に送致してからの事になる。1年も2年もかかるという話ではない」との事でした。

 1125()112分に杉並署のシブタニさんから私の携帯電話に連絡があり「押収品を返したい」との事なので、翌日に杉並署に出頭する約束をしました。

 1126()10時から杉並署において立花さんの立ち会いのもと、ようやく私の押収品が全て還付されました。還付にあたって立花さんは「検察に送る書類は星尾と和田が担当しているが、送ったかどうかはまだ分からない。送ったとしても事件処理の優先順位は被疑者の身柄を拘束している事件の方にあり、あなたの場合は後回しにされるだろう。処分がどうなるかは検察が判断する事なので分からない。事件の終結は年内一杯か年明け頃になるのではないだろうか」と言いました。

 129()1024分に私の携帯電話に杉並署からの着信があり、折り返し電話をすると、千明さんが「書類を検察に送った。検事さんから君へ必ず連絡がある」と私に報告しました。同じ日の1535分に私の携帯電話に東京地方検察庁の久保浩検事からの着信と伝言があり、折り返し電話をすると「事件についての話を聞きたいので面会したい」との事なので、翌日に面会する約束をしました。

 1210()930分から東京地方検察庁632号室において久保検事と面会しました。久保検事は私に対して事件の内容について軽く確認した後「君の行為は善意であったとしても、外形的には刑法224条の構成要件を満たしていて、犯罪は成立する。君の行為は親の監護権を侵害している。この、親の監護権の侵害にあたっては子供の意思は関係ない。子供には判断能力がないから。K君のご両親からの被害届は取り下げられている。それなので起訴猶予で不起訴とする。年内には事件終結で、処分なし。犯歴もつかない。この事件はこれが終わりで、検察から君への連絡はもう無い」と説明しました。

以上がK君が私の家に来た出来事について、刑事事件としての発生から終結に至るまでの経過です。私はK君を自分の家に入れた事でこのような事件になりましたが、決して後悔していません。「K君を家に入れなければよかった」とも、「K君のせいで面倒臭い事になった」とも、「恩を仇で返された」とも決して思っていません。私はK君と出会ったのは神の導きであると信じ、それどころか満足して喜んでいます。なぜなら主イエスは次のように祝福しているからです。「義のために迫害される人々は、幸いである。 天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、偽る人々からあらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書510-12)と。それなので私は神に感謝し、K君を決して恨んだり憎んだりはしていません。

★私の考え

 最後に貴社に対する私の希望をお話しします。私は先に自分の考えを記事に取り上げて頂きたいと書きましたが、その内容を詳しくお話しします。

お話しする前に大切な事に言及しなければなりません。それは私がお話しした事件の内容と事実からK君のご両親がK君に対して児童虐待まがいの仕打ちを行っていたのではないかと疑われるかも知れませんが、そのような疑いはなかったという事です。実際、K君の体に傷やあざはなかったし、ご両親にも実際にお会いして、とても理解のある、良心的で寛大な方たちだと思ったからです。

 私が記事に取り上げて頂きたいと考えているのは一種のオピニオン的主張のようなものです。先にも書いて表明しましたが私自身はキリスト者です。キリスト者である私は今回、自分の身に降りかかった逮捕から不起訴までの出来事を通して否応なく考えさせられた事があります。その事を多くの人々に知って頂き、また共に考えて頂きたいのです。

 ご承知の通り、日本の法律である刑法224条には「未成年者を略取し、又は誘拐した者は三月以上五年以下の懲役に処する。」とあります。私はK君を誘拐したつもりは毛頭ありませんが、久保検事によれば、私について外形的にはこの法律の定める犯罪は成立するとの事でした。ただ私は神の法律である聖書に記された「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイによる福音書185)という主イエスの言葉は守ったと自負しています。そこで私は考えざるを得ませんでした。なぜ神は私にこの苦難を与えるのだろうか、この苦難を通して神は何を私に語りかけているのだろうかと。

 杉並署での取り調べの際、千明さんが私に対して、このように言った事があります。「親は子供に対して保護監督権というものがある。君の行為は、この親の保護監督権の侵害にあたる」と。私はこの発言に対して次のように言いました。「確かに親の子供に対する保護監督権は、とても大事だし、重要だと思います。それは私も認めます。しかし、それは重要ではあるけれども絶対ではないと思います」と。

 また東京地方検察庁では、久保検事は私に対して「君の行為は善意であったとしても、外形的には刑法224条の構成要件を満たしていて、犯罪は成立する。君の行為は親の監護権を侵害している。この、親の監護権の侵害にあたっては子供の意思は関係ない。子供には判断能力がないから」と言いました。

 そこで私は再び刑法224条を読み直し、ある事に気がつきました。それは、この法律は確かに親の監護権・親の法益を守ってはいるけれども子供の権利・子供の法益については全く言及していないし、触れてもいないという事です。つまり親の立場に立っては考えるけれども子供の立場に立っては全く考えないという事です。もしかしたら子供は総じて親元にいる事が子供にとって一番安全で子供の法益が完全に守られるものだと、無条件に、暗黙の前提として理解されているのではないかと思いました。

 また刑法だけではなく民法にも818条から837条にかけて親権について書かれていますが、やはりここでも親の立場に立っては考えるけれども子供の立場に立っては全く考えないという事が言えると思います。例外的に子供の法益についての言及が819条⑥項と834条に見られますが、それでも子供の意思が直接、聞かれるのではなく必ず誰か仲介者を通して間接的に子供の意思が聞かれるという仕組みになっています。

 これに対して私が依拠している聖書の教え・主イエスの言葉は子供の立場に立って考え、子供の意思を直接聞き入れ、子供の法益を守っていると思います。最近、児童虐待や子殺し、親殺しなどの親子間の痛ましい事件が社会問題化しています。このような時だからこそ、私たちは子供の立場に立って考え、子供の直接の意思や声を尊重し、子供の法益を守らなければならないのではないでしょうか?

 しかし、これを実現するには私たちの、とりわけ子供を持つ親の常識や固定観念や思考というものが打ち砕かれなければならないと私は思います。ここで私は聖書に記された、ある物語を紹介したいと思います。創世記221節から19節に書かれた、アブラハムがイサクをささげる物語です。私は是非皆さんに実際に聖書のこの箇所を読んで頂きたいと思います。神を信じるアブラハムは子供が生まれるのを望んでいましたが妻サラとの間に子供がありませんでした。しかし神はアブラハムに対して子供が生まれる事を約束しました。アブラハムは神を信じました。そしてそれが彼の正義と認められました。神の約束通り、アブラハムが100歳の時に待望の独り息子であるイサクが生まれました。しかし神はアブラハムを試して次のように命じます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として献げなさい。」(創世記222)そしてアブラハムは命じられた通りに実行します。焼き尽くすための薪(たきぎ)を持ち、息子イサクを連れ神の命じられた場所に行き、薪を並べて、その上に息子イサクを載せ、刃物を取って息子を屠殺しようとします。その時、天から神の御使いがアブラハムに呼びかけて言います。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を恐れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記2212)こうしてイサクは無事で、アブラハムは神の声に聴き従い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、神から大いなる祝福を受けます。

 この物語を聞いて恐らく大抵の方は次のように思うかも知れません。「超高齢出産の待望の独り息子なのに、その愛する息子を屠殺して焼き尽くせと命じる神は、なんて残酷で非情なのだろう。そして神の命令に聴き従って本当に息子イサクを屠殺して焼き尽くそうとしたアブラハムは気が狂っているのではないだろうか。自分ならば、いくら神の命令であったとしても自分の子供を神にささげるために屠殺するなんで、とてもできない」と。

 しかし神は聖書を通して、常に私たちに大切な事を教えようとしておられます。一見、私たちの常識や固定観念や思考では到底理解できないような聖書の記述にこそ、実は私たち人間に対する、神の秘められたメッセージが隠されているのです。では、この物語を通しての神の大切なメッセージとは一体何でしょうか?

先ず第一に、この物語における聖書の記述通り、神を恐れ、神の声に聴き従うのは大切であるという事です。

そして次に、子供は親の所有物・親の私物ではないという事です。聖書の他の箇所では次のような記述があります。

「主はモーセに仰せになった。『すべての初子(ういご)を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。』」(出エジプト記131-2)

「モーセは民に言った。初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。」(出エジプト記133,12,13)

これらの記述を通して私たちは、子供に対する所有権は人間の親にあるのではなく、本当は神にあるのだという事が分かります。つまり、子供の真の所有者は神であるが、人間の親は神から、その子供をただ預けられているに過ぎないのだという事です。そして、この事を人間が強く確認し、意識して忘れないために、ユダヤ人の親たちは神殿に行き、初めて生まれた男子を神にささげます。具体的な儀式として、親は神殿に仕える祭司に、生まれた男の子と一緒に、雄の子羊1匹と家鳩か山鳩1羽をささげます。もし親の経済的事情から雄の子羊が高くて買えない場合は家鳩か山鳩2羽をささげます。そして神に対して、男の子の代わりとして、この羊や鳩をいけにえとしてささげます。(レビ記181-8節参照)この儀式を通して、人間は神に対して、子供は私たち親のものではなく、あなたのものであり、私たち親は子供をあなたから与えられ、預かっているのですという事を強く確認し、意識して忘れないようにするのです。私たちは今、丁度イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを目前にしていますが、このイエスも生まれて間もなくして、このユダヤ人の儀式にのっとって、母マリアとその夫ヨセフによって神殿で神にささげられました。(ルカによる福音書222-38節参照)私たち日本人の間でも古くから「子供は授かりもの」とよく言いますが、ある意味で聖書の教えと共通するところがあるように思います。

 私がここまで述べたところで、しかし鋭い方は次のような疑問を持つかも知れません。「あなたは、子供は全て神の所有であると言っているが、あなたが引用した聖書の箇所では、神の所有であるのは初子に限られているではないか。また贖わなければならないのは男子だけで女子は含まれていないではないか」と。確かに私が引用した聖書の箇所のみから考えれば、神の所有となるのは子供の中でも初子だけであり、神に対して贖わなければならないのは男子だけであると解釈できます。しかし私はそのような解釈には立ちません。なぜなら聖書の他の箇所には次のように書かれているからです。

「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」(詩編241)

それなので私は、神の所有は初子や男子に限定されるものではなく、子供全てに及ぶと解釈します。神が先の箇所で敢えて初子や男子に限定したのは、初子や男子という限定で、全ての子供を代表させるためであり、また先の箇所で限定せずに全ての子供とした場合、いけにえの準備等のために人間の親の出費や負担が過度に大きくなるので、そうならないようにという神の人間に対する配慮からであると私は解釈しています。

また先の箇所での初子や男子の限定には、もう1つ別の大きな意味が隠されています。それは私の引用した出エジプト記において「初子」はイエス・キリストを予型として表しているという事です。

予型とはギリシア語でΤΥΠΟΣ(テュポス)と言い、聖書では「前もって表す者」(ローマの信徒への手紙514)とか「前例」(コリントの信徒への手紙Ⅰ106,11)とも訳されて使われています。予型の意味は、まだイエス・キリストが地上に生まれていない時代に書かれた旧約聖書の出来事の中に、イエス・キリストの出来事が既に前もって表されているという事です。出エジプト記は旧約聖書の中に含まれている書物です。因みにテュポスは後に英語に入ってtypeという言葉になっています(福音の弁明と立証63参照)

出エジプト記の「初子」はギリシア語原文ではΠΡΩΤΟΤΟΚΟΣ(プロートトコス)という言葉で、新約聖書ではイエス・キリストを意味しています。

ローマの信徒への手紙829節では「神は前もって知っておられた者たちを、(=イエス)の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」とあり、ここでの「長子」がプロートトコスです。

またコロサイの信徒への手紙115,18節では「御子(=イエス)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。また、御子はその体である教会の頭(かしら)です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。」とあります。ここでの「前に生まれた方」と「最初に生まれた方」がプロートトコスです。

ここで私は引用した新共同訳のコロサイの信徒への手紙115節に誤訳がある事を指摘しなければなりません。「御子は、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」ですが、ギリシア語原文ではΠΡΩΤΟΤΟΚΟΣ ΠΑΣΗΣ ΚΤΙΣΕΩΣ(プロートトコス パーセース クティセオース)で、直訳すると「御子は、すべての造られたものの初子です。」となり、明らかに誤訳です。

次にこの箇所の間違った解釈について反論し、間違いを指摘しなければなりません。間違った解釈とは、この箇所からイエス・キリストは神に造られた被造物であるとする解釈です。ものみの塔はこの解釈に立っています。彼らの訳した聖書の新世界訳は、この箇所を「み子は全創造物の初子です。」と非常に正確に訳出しています。しかし彼らはこの箇所からイエス・キリストは神に造られた被造物であると主張します。この主張は次の2つの理由から斥けられます。第一に聖書は「御子は、すべての造られたものの初子です。」と言っているのであり、「初子」そのものが造られたものであるとは言っていないからです。第二に聖書は「造られたもの」について、ギリシア語原文でΠΟΙΕΩ(ポイエオー)ではなくΚΤΙΖΩ(クティゾー)を使っているからです。聖書には「造る」を意味する言葉としてポイエオーとクティゾーの2つがあり、これらは区別して使われています。ポイエオーは最も広い意味で「造る」を意味する言葉です。創世記11節から23節に記された神の天地創造の記事は有名ですが、ここでは「創造する」に全てポイエオーが使われていて、クティゾーは一切使われていません。クティゾーはポイエオーと同じく「造る」を意味する言葉ですが、元々は「植民都市を建設する」という意味です。聖書では、人間が洗礼を受けて、罪に死に神に生きる事、古い自分に死に新たな人に生まれる事、つまり洗礼における新たな創造を意味します。例えばガラテヤの信徒への手紙615-16節の「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」では「創造されること」に、エフェソの信徒への手紙422-24節の「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」では「造られた」に、コロサイの信徒への手紙39-10節の「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」では「造り主」に、それぞれクティゾーが使われていて、ポイエオーは一切使われていません。従って、この箇所からイエス・キリストは、創世記冒頭に記された神の天地創造の際に造られた神の被造物であるとする解釈や主張は間違っています。

キリスト者にとってイエスは神の息子であり、初子であり、男子です。それなので出エジプト記の先の箇所における初子、男子の限定は神の初子であり男子であるイエス・キリストを予型するものです。そして、父と子と聖霊なる三位一体の神を信じるキリスト者にとって、子なる神イエスは父なる神と存在が一つです(福音の弁明と立証110,134-137/神学の森6参照)。それなので出エジプト記の先の箇所において「初子」が主なる神のものであるという事はイエスと父なる神の存在が一つである事を予型するものです。そして更にイスラエルの人々がすべての「初子」を神にささげるという事は、イエス・キリストを信じる人たちすべてが、すなわち神の教会が、神のイスラエルが(福音の弁明と立証148/神学の森39参照)、聖霊なる神が、唯一の「初子」であるイエスを通して、父なる神と存在が一つであるという事を予型するものです。

 私が紹介したイサクをささげる物語においてアブラハムは決して気が狂っていたのではなく、誰が愛する息子イサクの所有者であるかを正しく識別していたのです。イサクを所有しているのは親の自分ではなく神であると正しく識別していたのです。アブラハムは確かに息子イサクを愛していました。しかし息子イサクに対して所有者としては振る舞いませんでした。この物語を通して神が私たち人間に語りかけるメッセージ、つまり子供は親の所有物・親の私物では決してないという事は、非常に大切であると思います。

 私は、子供の立場に立って考え、子供の直接の意思や声を尊重し、子供の法益を守らなければならないと訴えましたが、これを実現するには、私たち一人一人が、とりわけ子供を持つ親が、アブラハムのようにとは言わないまでも、子供は親の所有物・親の私物ではないという事を肝に銘じる必要があるのではないでしょうか?というのは親は子供を愛するあまり、無意識の内に子供を所有物化・私物化する傾向があるからです。この傾向は非常に危険であると私は思います。この子供の所有物化・私物化を具体的に言うならば、親が子供の自由意思を尊重しない、子供の自己決定権を奪ってしまうという事です。親は、子供のためだという理由で、また子供にはまだ判断能力がないという理由で、子供について、日常生活の様々な場面や進路選択・恋愛などの人生の大事な局面において、子供に代わって勝手に自分が判断し、選択し、決定してしまってはいないでしょうか?私は、子供の自由意思は可能な限り尊重すべきあるし、子供の自己決定権は可能な限り侵害してはならないと思います。特に子供にとって人生の大事な局面においては絶対に子供の自己決定権は侵害してはならないと考えます。もちろん全ての場面において親が子供の自由意思を尊重し、子供に自己決定させる事ができないのは私も分かります。しかし子供に判断能力がないというのは大きな間違いであると思います。親のように幅広い知識や情報がないとしても、子供は限られた知識や情報の中で自分で判断し、選択し、決定する事ができます。場面によっては子供の方が親よりも優れた判断を示す場合もあります。子供に判断能力がないというのは、親が子供を所有物化・私物化し、容易に管理するための都合のよい口実となっているような気さえします。教育の目的は子供の自立です。つまり子供が主体的に物事を考え、自分自身で判断し、選択し、決定できるようになることです。親が子供について、あらゆる場面において子供に代わって勝手に自分が判断し、選択し、決定してしまうのは、この教育の目的に逆行するものです。そうではなく親は、あらゆる場面において子供の自由意思を尊重し、判断や選択の材料となる必要な知識や情報を子供に与え、子供が自分で決定するのを忍耐して待つように最大限努めなければならないと思います。

 最近、児童虐待や子殺し・親殺しなどの親子間の痛ましい事件が社会問題化していますが、その根底にある原因は親が子供を所有物化・私物化する事にあるように私は思えてなりません。つまり児童虐待や子殺しでは、手を上げてしまう親は子供の時分に自分の親によって自分の自由意思が尊重されず、自分の自己決定権が奪われていたのではないでしょうか?また親殺しでは、子供は親によって自分の自由意思が尊重されず、自分の自己決定権が奪われてしまったのではないでしょうか?このような悲しみの連鎖や不幸の循環を断ち切るためにも、親が子供を愛するあまり、無意識の内に子供を所有物化・私物化するという、私たちの常識や固定観念や思考は打ち砕かれねばなりません。子供は親の所有物・親の私物では断じてありません。親は、子供を愛する事の意味を吐き違えてはなりません。子供を愛する事は子供の所有者として振る舞う事ではないのです。アブラハムのように子供を愛してはいても、所有しない。このような態度を取ってこそ、初めて私たちは、子供の立場に立って考え、子供の直接の意思や声を尊重し、子供の法益を守る事ができるのではないでしょうか?

 おわりに私が紹介したこの物語にはもう1つ、別の大きな意味が隠されています。それは人間に対する、神の秘められた、壮大な救いの計画に関係するものです。この、アブラハムがイサクをささげる物語は正にクリスマスの出来事を予型しているのです。クリスマスは言うまでもなく、イエス・キリストが地上に生まれた誕生日です。そして人々はクリスマスプレゼントを贈り合います。サンタクロースは子供たちにクリスマスプレゼントを与えます。しかしクリスマスの本当の意味は、神が人間に対して真の最高のプレゼントを与えて下さったという事なのです。すなわち神がご自分の愛する独り子であるイエス・キリストを救い主として人間にプレゼントして下さったという事です。このクリスマスの出来事について聖書は次のように述べています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書316-17)と。

アブラハムが愛する独り息子イサクを神にささげる事は、実に、神が愛する独り息子イエスを世に与える事を予型しているのです。

それでは薪は何を予型しているのでしょうか?イサクを屠殺しようとした事は何を予型しているのでしょうか?答えはイエスの公生涯のクライマックスにあります。つまり薪はイエスが背負い、はりつけにされた十字架を予型し、イサクを屠殺しようとした事はイエスが苦しみを受け十字架上で死ぬ事を予型しているのです(福音の弁明と立証121参照)

使徒聖パウロは次のように言います。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマの信徒への手紙832)と。

アブラハムは愛する独り息子を屠殺しないで済みましたが、神は愛する独り息子を実際に屠殺したのです。キリスト者の信じる神は、信者に対して「ああしろ」「こうしろ」と口やかましく命じるだけで自分自身は何もしない教祖や神ではありません。信者に対して教え、命じた事を自分でも実行する神であり、信者に対して自ら模範を示す神なのです。主イエスは十字架にはりつけにされる前、弟子たちと夕食を共にし、次のように言いました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネによる福音書1315)と。また使徒聖パウロはコリントの信徒たちに対して次のように書き送りました。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ111)と。この言葉通り、神はアブラハムに命じた事をご自分でも実践なさったのです。

このような訳でキリスト者はクリスマスを祝い、クリスマスに神を礼拝し、神に感謝し、神を賛美するのです。

 以上、私が貴社に対して記事として取り上げて頂きたいと考えている事、キリスト者である私が今回自分の身に降りかかった逮捕から不起訴に至るまでの出来事を通して否応なく考えさせられた事、多くの人々に知り、また共に考えて頂きたい事を述べました。つきましては、もしこの手紙の内容が貴社の判断に照らして記事に取り上げるにふさわしいものであれば、私は、是非貴社とコンタクトを取りたいと願っております。どうぞ宜しくお願い致します。

敬具

20101218()

木田 啓介

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【木田啓介さん】「2つの事件」についての詳細の報告」への1件のフィードバック

  1. ムラサキツユクサ

    逮捕されると言う憂き目に遭ってなおこのような態度を貫き通せる木田啓介さんに本物の人類愛を観せられた感じで、「感動」の一語に尽きる思いです。

    それに引き替え、警察、法律、…我々も、なんて情け無いんでしょうね。対談での、さゆさんの「逮捕されるとは思わなかったんですか。」と言う質問に薄汚いものを(さゆさんではなくて皆んなの中にある似た意識)を感じちょっと嫌なものを見た思いでした。

    我々はこの人のこの様な貴重体験から得た学びを実生活のなかで反映していかなければならないと思います。

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