2土俵の女人禁制は、女性を貶めるものではない ~本来「差別」という言葉は、「悪」という意味は内包していないであろう


・土俵の女人禁制は、女性を貶めるものではない。 ~相撲のルールは、権力者ではなく運営者側が作るべき

本記事は上記の続きです。

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<土俵は一時的なもの>

ちなみに、土俵というのは毎場所ごとに作られます。

両国国技館でも地方巡業などでも、毎場所、土を盛って作られるのです。

相撲の巡業期間外は、両国国技館であっても、女性ミュージシャンがコンサートしたりします。

国技館の中心、土俵がある上で、です。

さらに、女性が土俵に上がれないのは、土俵を作り、「神迎え、神送りの神事」を行った間のみです。

つまり、その土地自体を「女性が上がってはいけないもの」としているわけではなく、女人禁制なのは土俵に神を下ろした間だけ、ということです。

そうしたのは、実際のところは、興行として、「ここは男が勝負を争う場所、女性は入っていけない」とすることで、特別な場所として、差別化することで価値を上げたかったのではないでしょうか?

「相撲は男と男の勝負の世界。女人禁制!」とすることで、魅力を増そうと思ったのでしょう。

男性にとっても、女性にとっても、魅力的な場とする為に、同表を女人禁制にすつことで、差別化したのです。

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<差別は、悪いことではない。>

差別とは、「良い・悪い」と単純に100か0かではありません。

差別は、ただ「違い(差)」であり、それは当たり前にあるものなのです。

差別でいけないのは、違いによる「迫害」、違いによる「生活への圧迫」であって、差別そのものが悪いことではありません。

つまり、差別を根拠にした「迫害、生活への圧力」が悪いことであって、差別自体が全部悪いことではありません。

差別という言葉は、その迫害・生活への圧迫を含めた「悪いイメージ」が付随してその概念が成り立つようですが、それは現代社会が作り出したイメージ、悪用であって、本来「差別」とは「違いを見つけて区別すること」でしょう。

そこに本来「悪いイメージ」が付随していなかったはずです。

その証拠に「差別化」と「化」を付けると、「悪い」という意味合いが薄れ、「違い」という意味になるように、本来「差別」とは「区別」と一緒で悪イメージは無く、「違い」という意味であっていいのです。(例:「ライバル校との差別化を図り、当野球部ではウエイトトレーニングを取り入れている」)

しかし現代では「差別=悪」とイメージ付けが行われているというわけです。

前述したように、土俵を魅力的な場とする為に、女人禁制という差別化を図ったという私の考察のように、差別化、つまり「違い」は、魅力になるのです。

魅力を生み出すために差別化を図ることは「成長」とも言えます。

相手の価値を下げる為ではなく、魅力を狙って価値を上げる為に、差別することがあるのです。

そしてそれは、トレードオフの相関関係ではなく、相互共に成長する差別化もあるのです。

つまり、差別とは悪いものだけでなく、良いものもあるのです。

そのような、差別(違い)が悪いことである、というイメージ工作に我々は騙されていけません。

それは、差別を使って世界を、そして人も均一化しようとしているものの巧みなトリックなのです。(NWO・支配設計)

そしてその「差別を根拠にした、迫害、生活への圧力」を作り出しているのは、メディア、行政、企業、カルト、特務機関などです。

つまり、支配設計に機能する出先機関がそれらを作り出しているのです。

その3に続く

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