2016年3月6日から始めた「さゆふらっとまうんどメイン動画3」ですが、開始から2か月もたたず2016年5月2日、アカウントが削除されました。
・https://www.youtube.com/c/flatmoundsayu
下の画像、8本の動画がすべて削除です。
正確には下の画像でサムネイルが消えている4本の動画は4月5日と6日に消されています。
・2016年4月5日 動画が二本削除されました。
・2016年4月6日 昨日の2本に続き本日5本、さらに先ほど2本の動画が削除されました。本日計7本の動画が削除。
つまり、私の動画があると、適正に支配者層の為の報道が流通出来ないようです。
下に添付した「放送コンテンツ適正流通推進連絡会へ」を読めばわかるように、私は以前から言っていることですが、報道に著作権を持ち出し、私のような活動家の分析を排除することは、「報道方針を我々大衆は鵜呑みにしなければいけない、信じなければならない」というメッセージであり、それは社会が何者かによってコントロールされている証拠なのです。
つまり報道も含めテレビメディアとは、「大衆を総洗脳する道具」であることを物語っているのです。
・“国民のLGBT理解促進を国の責務”とする法案は、人口削減計画兼、思想・志向に介入して弾圧する為 ~「偏見」はメディアによって作られる。
なぜなら私の主張は、不自然なほど一貫している報道の方向性とは著しく異なるものだからです。
それを「著作権侵害」という、いかにも削除対象にふさわしいかのような根拠を振りかざして言論統制をしているのです。
つまり、「放送コンテンツ適正流通推進連絡会」がやっていることは一見、著作権侵害を取り締まっているように見えて、「言論弾圧」をしているのです。
・2016年3月4日 さゆふらっとまうんどのyoutubeアカウントが利用停止になりました。 ~著作権侵害を理由に削除要請した者と、youtubeへ
放送コンテンツ適正流通推進連絡会へ
公益を目的とし、老若男女、富の大小に関わりなく平等に与えられるべき社会報道に対して著作権侵害を持ち出すのならば、我々はなんらその報道のあり方に対して異を呈せないことになる。
そして同時にその報道内容である、政治や社会での出来事、事件、事故の正体そのものに切り込むことも困難になることから、それは公益を著しく損ねる行為である。
当該アカウントの動画構成は、私が顔を出し、自分の声で話し、伝える動画であり、その際に話の題材として動画の一部に「報道の静止画」を添付している。
「報道の静止画」は、アナウンサーなどテレビ局社員の顔が映りこんでいることがあること、そのテロップやポップの形状からどこの放送局のニュースであるか、その出典は明らかである。
それに対して著作権侵害であると言うならば、著書などの出典を明らかにしている引用は許され、なぜ動画は駄目なのであろうか?
そして私はその出典をいかにも自分が作り出したもののように、自分の著作物であるかのように利用してい・な・い・ことは動画を見れば明白である。
つまりその出典の価値を私が取り込むことによって出典元の営利を侵害しているわけではない。
そもそも私の動画構成である「報道の静止画を添付する形」に対して、著作権の侵害という概念を持ち出すことで「分析したり、伝達してはいけない」とされてしまうことは、その報道は「公益を目的とされた情報ではない」ということになる。
誰のための報道であるのだろうか?
社会の出来事を伝える「報道」とは、面白さを追求したバラエティー番組とは目的が違うのである。
報道を通して我々は社会形成の変化や出来事のみならず、社会環境そのものを知る必要がある。
報道を見聞きすることは、自分自身の生命、人生に大きく影響を与える。
なぜならそれは我々が生きる上で決して絶ち切ることはできない「現代社会環境」を認識することができるからである。
そしてそれだけでなく、我々が生を受け、未来を形作る為にどのように自分が後世に恩恵を残せるかを各々が自分と照らし合わせる為の情報になる。
つまり報道とは、公共的公平に享受されるべきであり、その役割があるはずである。
その「報道」の扱いに対して著作権の侵害を訴えることは、冒頭で言ったとおり、公益を著しく損ねる行為である。
以上の理由から私は、報道情報の取り扱いに対して著作権侵害を訴えることは、報道の根幹である「公益」という概念から著しく乖離する行動であることから、今回のアカウント削除は不当な削除であると、著作権侵害を理由に削除要請した者と、youtubeに主張する。
よって、当該アカウントの即時復旧を要望する。
さゆふらっとまうんど
最後に、個人が顔を出し社会分析している動画がこれほど立て続けに消されまくっている現状は、私の言論と分析は的確であり、支配者層側が嫌がっている証拠です。
にもかかわず、それに誰も気づかず、誰も立ち上がらない現状は、この世界のNWOの社会整備はかなり進み、現代人類は総洗脳され、総無力化され、「命と引き換えに未来に光を差す」という、昆虫ですら当たり前の営みである、生物としての恒常性すら皆無である証拠だと思っていますが悲観し過ぎでしょうか?
本当に現代人類は今の自分さえ良ければ「幸せ」であるほどに狭い想像力しか持っていないのでしょうか?
例え自分が幸せを感じても、それを未来にも残すのは当たり前であり、それどころか現状より良い社会に世界を変えて息絶えなければ、人は生まれてきた意味はありません。
それを現状維持どころか、時間がたてばたつほどに社会の幸福度は劣化している現状を、私は日々動画とブログで言っています。
あきらかに、さゆふらっとまうんどの分析と言論が的確であるから彼らは言論弾圧している。それに対するさゆふらっとまうんどの主張は、反論しようもないほど正しく的を射ていて、私たちの良心を突き動かし揺さぶる。その正しいことをわかっていながら、共感していながら お前はなぜ何もしないのだ と、自責の思いで苦しくなる。誰も気づいていないのではない、多くの人は無力化され洗脳され立ち上がれなくなっている。多分生物としての恒常性すらなくしてしまっているのが現実かもしれない。私は今に幸せを感じていない、先に見えるものは暗闇しかない。現状より良い社会に世界を変えて息絶えなくては人は生まれてきた意味がない この言葉には胸がつまります。
動画が消されるということは、その情報が支配者側にとって都合が悪いという証拠である。真相が、表面化してしまえば支配者側の旗色が悪くなる。逆を言えば、支配者側の嘘を究明しているように思える動画でも、消されずに何万回も再生され続けているようなものは、真相に近づこうとする者へのトラップなのかもしれない。自分の頭で物事をしっかりと見極めないと、真相に近づいているつもりが、支配者側によって違う方向へ誘導されている場合がある。感性を磨き、真実を見極め、これからの世代のために一人ひとりが立ち上がろう。
安倍政権の言論弾圧はゆるせない