さゆふらっとまうんどピクニック常連さんの「ピクニックに何度か参加して考えたこと。」


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加藤1億総活躍相「国民会議」今月開催を発表 ~国民会議?それって国民が参加できるんですよね?
に寄せられたコメント。


向日葵

         

【ピクニックに何度か参加して考えたこと】
私は、さゆさんのファンではなく、「さゆふらっとまうんど」の理念に共感し、さゆさんから発信される情報に共感したり、疑ったりしながら日々『自分の感覚で感じ、頭で考える』ことを意識しながら学んでいます。
私には、これまで大切に育ててくれた両親がいて、尊敬する祖父母がいます。そして、今現在、日本という国で生きています。私が、初回から何度かピクニックに参加して感じたことと、この記事を読んで考えたことをこちらでシェアさせてください。

〉行動は思索を超えるのです。だからこそ、人と人とが直接会い、語らうリアルな場は永久に不滅であり、私はピクニックを開催しています。ピクニックは、「国民会議」の場とも言えるのです。

■私たちは、日々、試行錯誤しながら行動していて、ピクニックで、初めて出会う異なる分野の方とお話することで学ぶことが沢山あります。それに加え、ピクニックは、春、夏、秋の季節の空の下、芝生の上に腰を下ろし、自由になれる(電磁波からも!)貴重な場所だと感じています。「あれ、風ってこんなに気持ちがよかったかな。」「わっ、蟻がのぼってきた!」と小さなことに気が付いたりします。都内で生活しているとそんな生物として当たり前の感覚が鈍っていることにも気付かされます。そこに居られる方々と、真剣に意見を交わす場が自然発生していて、私がどの情報を得て、活用するかの自身の情報リテラシーを鍛える機会に繋がっています。つまり、自分の感覚を信じて、いかに自分の頭で考えるかという貴重な時間になっていることに気付きました。他の参加者の方々を見ていて、頷き共感したり、意見の違いに、さらに深く考えてみたり、その「生きること」への真剣な眼差しがそこの空気観をつくっていると感じています。毎回、場の空気観が違うのも面白いです。それに、参加される年齢層も幅広いです。赤ちゃんからお年寄りまで。当たり前ですが、人は唯一無二の存在ですから、アウトプットし合い、相手との違いを知ることで、自分自身のことを知ることに繋がると私は考えます。それは、自分自身の新しい可能性に出会う機会としての「学ぶ場」であると認識しています。本記事にあった、ピクニックは未来の「国民の会議」の場であるというアイデアは、現在進行中ですし、素晴らしいと思いました。

〉参加者ならご存知のとおり、ピクニックは私の言論を押し付ける場ではありません。
みんなで話し合う場であり、おまけとし私と話したい人は自由に話しかけられる場なのです。

■実際にさゆさんにお会いして、本当にそうだと思いました。それに、さゆさんのお考えはブログや動画で理解しようと各々が学んでいるわけで、実際に疑問に思ったことや腑に落ちないことを直接、フラットに聞ける機会は有り難いです。「おまけ」とは、いい表現ですが、さゆさんが、そこにおられることで、私たちは、自由に動きまわり、沢山の方々と語り合えることができるのだと感じ、私は感謝しています。

〉いま支配者層は、NWOを進める為に我々大衆の人間関係を希薄にし、他者を疑うように疑心暗鬼な社会構築に必死です。言うまでもありませんが、ピクニックは怪しい場ではありません。懐疑心からは何も生まれません。あなたのたった一つの行動は無限の建設的可能性を秘めています。

■社会毒、常識の敷設。私は、電車に乗っていても、仕事をしていても、ニュースを見ていても、雑誌を読んでも、買い物に行っても「何か変だな」と感じます。それでも、私は、この世に生まれ、生命を繫ぎ、生きていきたいと思います。だからこそ、現実を受け止めて、ネガティブに思っている場合ではありません。他力本願で生きている場合ではありません。私たちの世代が、どう生きて、後世にどう繋いでいくか。そこに真剣に向き合うことは、勇気のいることです。人は、1人では生きていけませんから、共に歩むべき人と、共生していくことで、建設的行動に繋がるのだと思います。私は、今、私ができる時間・場で最大限のことをクリエイトしていくことしかできません。しかし、シンプルで、ちっぽけな行動かもしれませんが、この行動こそが大事だと信じています。

〉先日も我慢強い小2の子がピクニックに参加しましたが、大人たちが何を言っているか全くわからなかったでしょう。しかし、大人たちが何か真剣に話し合い、共感し合い、納得し合い、分かち合っているその姿を見ることは、その子の心に必ず行動力や挑戦する前向きさの芽を植えつける親の行動になったことでしょう。

■本当にその通りだと思います。子どもは、不思議とちゃんと分かっていたり、学んでいたりします。小2で、堂々と自己紹介する姿勢にも感動しましたし、私も、その子の可能性に繋がることを願っています。最後は、寝てしまったけれど、本当に我慢強くて驚きました。お話した時に、「楽しい!!」と一言、にこっと笑っていたのが印象的です。自分の意思もしっかりもって。

最後に、さゆふらっとまうんどの理念にある『まだ見ぬ子孫の為に恩恵を残す使命を生を受けた者なら誰しもが、漏れなく皆が負っている事を決して忘れない それが勇気と希望になる』
そのことを心に刻み、生きていきます。
私は、勝手に『さゆふらっとまうんど』の世界を生きています。
また、皆さんとピクニックで語り合えるのを楽しみにしています。さゆさんも、お元気で!


>最後は寝てしまったけど

私は初めてのピクニックの時から寝ましたw

好きな時寝ればいいんです。

ぐずらずに寝ると言うことは、「まだ我慢が継続している証拠」なのです。
私は寝たことにも関心していたのです。

そして、子供に限らず人間は、「寝ろ!」と言われても、絶対に寝ないくらいに「集中力と向上心と知識欲」があるものです。

それには健康が不可欠なのは言うまでもありません、よって社会毒の知識はとても大切です。

さすが常連さんです。ピクニックの楽しみ方を知ってらっしゃいます^^

ピクニック参加を迷っている方は一読ください。

私もあなたも、人生は有限なのです。

「いつか~」は、二度と訪れません。
東北ピク

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さゆふらっとまうんどピクニック常連さんの「ピクニックに何度か参加して考えたこと。」」への2件のフィードバック

  1. さっとん

    ピク参加便乗コメントです^^

    行動こそ真実。

    過去でも未来でもなく、「今」その時しか生きられないのが人間です。

    今日、ある小さき生き物に差し伸べる手を悩んで・・・
    少し遅かった10分間の思考・判断で、どんどん時間や距離が押し寄せ、積み重なった障害になり膨らみ・・・
    引き返した時には望むような結果を掴めませんでした。

    恐らく、その小さき生き物にも自分にとっても何かのきっかけでであったであろう巡り合いを不意にしてしまいました。

    本当にほんの一瞬の判断。
    次なんて無い。

    洗脳されてる人達には随所でしか感じないかもしれないけれど、実は思いっきり不自由な現実・世の中。

    見えない脅迫・制約・自身が選んでると思わせられている振り分けれたような路、ばかりの世の中で、
    せめて選択の余地がある、自分のしたいことぐ・ら・い・は、後先囚われないで、自分が決めたいと生きています。

    ピクもその一つです。

    本当に自分のしたい事、すべきであろう事すら分からないほどのブロックがかかっている他者や世の中から、
    それらにとやかく言われたり、ただ思われる、それらに阻まれる、そんな筋合いはないのです。

    自分の心に靄のかからない自分が誇れる「今」を感じるためには、
    時には思考を封じて、条件反射のような心に素直に踏み出すほんのささいな一歩。

    世の中、外が曇っていても自分の心は晴れマークで生きたいのです。

    次は無いと思いながら、自分の勉強と行動の指針の為にピクに参加しています。
    そしていつも大きな実りをお借りしています。

    何かに助けを求めてコメントしたりピクに参加しているのではなく、

    自分の為=世の中の為は同一だと思うので、
    トコトン自分の為にコメント、ピク参加しています。

    ピクは既に立派な国民会議ですね。
    本当に素敵な場を有り難うございます。

  2. もけ

    その場に私も居合わせる事が出来て良かったです。紙の造形が優秀でした(*≧∀≦*)
    何度かピクニックを楽しませてもらってますが、上記の親・子さんとは故郷が近隣だった事に驚き、311の津波や原発の悲劇を直近で味わった同士で話し合えてよかったです(´∀`)

    来月はいよいよ東北ピクニックですね!
    そして東北は降雪の問題もありますので今年最後ですかね??

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