<FNN戦後70年企画>ニッポンはなぜ戦争をしたのか? ~天皇の「て」の字も出てきません


WS004691WS004689

戦後70年 特攻隊員として出撃し帰還した男性が思いを語りました。

07/22 12:50

 

太平洋戦争の末期に、旧日本軍が編成した「神風特攻隊」。戦闘機に乗って、敵に自爆攻撃を与える特攻隊は、戦局を打開する切り札として展開され、数多くの若者の命が散りました。
特攻隊員として出撃し、帰還した男性が、戦後70年の節目に、当時の特攻とその思いを語りました。

神風特攻隊。
太平洋戦争終盤に行われたこの作戦で、多くの若者が亡くなった。
その特攻隊員の中に、帰還して戦後を迎えた人がいる。
柳井和臣(よしおみ)さん、93歳。
柳井さんは、「万に一つも生きることのない。特攻隊っていうのはね。それなら、男らしく逝こうじゃないかと」と語った。
21歳の時に、学徒出陣した柳井さんは、戦闘機パイロットのエリートコースといわれた、筑波海軍航空隊に配属された。
戦争末期、日本が劣勢に立たされ、上官たちも、次々と迎撃に出た。
柳井さんは、「もう戦闘機でね、実際、アメリカと対抗してもね、太刀打ちできないっていうことは、感じておりましたね。もう特攻隊しかないなと、ゼロ戦が」と語った。
柳井さんは、特攻隊への入隊を決意した。
柳井さんは「いくぶん、葛藤は、みんな持ってたと思います。それは、22〜23歳でね、いわゆる、散るわけですから、命を落とすわけですからね」と語った。
表紙に「回想」という文字。
これは、柳井さんが両親のために、遺書代わりに残したアルバム。
アルバムには、「お父さん、お母さん、では出発します。笑って死にます」と記されている。
柳井さんは「とにかく母親を安心させたいと。だから、一切つらかった、やれどうだということはね、この(アルバムの)中にないわけなんです」と語った。
そして、23歳の時、柳井さんは、特攻隊として出撃。
17機が出撃したものの、アメリカの艦隊を見つけられなかった、柳井さん含む3機だけが帰還。
その後、出撃する機会はなかった。
柳井さんは、「やっぱりね、どんなことがあっても、ちょっとね、(特攻)攻撃に出て、帰ってきたとなれば、後ろめたいんですよ。気持ちとしてね」と話した。
生きて帰ってきたことへの後悔。
しかし、その後、ある人の言葉に救われた。
柳井さんは、「(特攻で散った)金子中尉のお母さんがね、僕の肩に手を置いて、『柳井さん、よかったね、あんた、生きて帰ってきて』ってね、言われたのよ。それでね、僕ね、これで本当にね、『いやいや…』ということだったけど」と語った。
特攻で散った上官の母親にかけられた言葉。
この時、初めて息子の無事を願い続ける母親の気持ちを知った。
柳井さんは、「(日本は、なぜ戦争をしてしまったのか?)これはね、資源確保ですよ。当時の日本民族のね、ずっとね、まあ、子ども、孫の代まで豊かにしてやりたいというね、(日本の)将来ということを考えてくれてたと。ただ、やり方は、非常に問題があったんじゃないかと思いますね」と語った。

柳井さんは、「70年前も今も、平和と繁栄を願う気持ちは変わらない。戦争した事実はあるだけだ」と話している。
この事実を継承することが、大切なのかもしれない。


 

WS004676戦後70年 「芸者の目」から戦争に迫りました。

08/14 02:12

 

戦後70年を鍵に、今を読み解いていくシリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
「芸者の目」から戦争に迫ります。美しく華やかな芸者の世界「花街」。戦争は、街の華やかさを奪い、芸者たちの生活を一変させました。今もなお、芸者を続ける、92歳の女性が見た戦争と花街です。

三味線を弾きながら力強く歌う、浅草 ゆう子さん(92)は、東京都内最高齢の現役の芸者。
ゆう子さんは「ちょうど今ごろだと暑いでしょ、夏なんかは。だからそういう、うそつき(薄い肌着)を着るの。今ごろのお座敷なんてね、大変だから」と話した。
ゆう子さんは、16歳で初めてお座敷に上がり、20歳の時に浅草で独立を果たした。
戦前に出版された、当時の浅草芸者の姿を収めた冊子。
「芸は売っても身は売らぬ」、歌や踊り、楽器などで宴に興を添える芸者。
「花街」と呼ばれる彼女たちの街は、かつて、全国各地に存在した。
そんな華やかな花街に、大きな変化が訪れた。
ゆう子さんが芸者になって、およそ2年後の1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。
配給制度が実施され、街から食料や生活必需品が消えていく中、芸者たちは、軍人などを相手に営業を続けた。
ゆう子さんは「刀を下げて、偉い人が来ましたよ。嫌みのない、いい人でしたよ」と話した。
しかし、1944年に発令された「決戦非常措置要綱」によって、お座敷遊びなどの高級娯楽が禁止になった。
江戸時代から150年以上続いたという浅草花街も、閉鎖となった。
職を失った芸者たちは、三味線を竹やりに持ち替え、戦いの訓練を受けたという。
ゆう子さんは「照れくさくてね、わたしたちはね。ちゃんと、もんぺはいてやったんだから」と話した。
「苦労と思うかは気の持ちよう」と、つらい時代を少しも感じさせずに語るゆう子さん。
しかし、東京上空を覆い尽くした、B-29爆撃機。
火の雨のごとく降り注いだ焼い弾によって、およそ10万人の犠牲者を出し、東京は一夜にして焼け野原となった。
空襲で消失したエリアを表した地図。
木造住宅が密集する下町を中心に、大きな被害を受け、浅草花街も地図上からその姿を消した。
ゆう子さんは「何にもないの。全部、何にもないのよ。見通しがよくなっちゃってね、びっくりしちゃうわよね」と話した。
当時、長男を身ごもっていたというゆう子さん。
命の瀬戸際で、唯一、持って逃げたものがあるという。
それは、化粧鏡。
駆け出しのころに、先輩芸者から譲り受けたものだった。
ゆう子さんは「げた履いたままね、上がったわよ、(自宅の)2階へ。鏡台の引き出し。これを胸に入れて、それでよかったと思ってるの」と話した。
片時も、芸への熱意を絶やさなかったゆう子さん。
それから、およそ5カ月後に迎えた終戦。
浅草芸者の数は、戦前の10分の1ほどまで、減少していたという。
しかし、浅草花街は、その後、1年足らずで再開。
少しずつではあったが、以前の活気を取り戻していった。
ニッポンは、なぜ戦争をしたのか。
芸者として、戦前・戦中・戦後を生き抜いてきたゆう子さんは、「人が死ぬっていうのはでしょ、1番ね。そういうものをね、味わった人でなきゃわかんないもんね、本当に。本当にもう、戦争っていうのは嫌ですね」と語った。


WS004692戦後70年 200人の特攻隊員らを見送った男性が思いを語りました。

08/04 13:32

戦後70年シリーズ企画。「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
太平洋戦争終盤に、200人の特攻隊員らを見送った男性がいます。なぜ特攻は続けられたのか。男性は、戦後70年の節目に、当時の様子と、その思いを語りました。

元海軍の兵士、伊東一義さん(92)。
伊東さんは戦時中、出撃はせず、要務士として、飛行隊の世話をする任務に就いた。
伊東さんは「耳の内耳に故障があって、飛行場で見送るまでが僕の仕事で、仲間が飛び出していって、それが帰ってくるのを待っとって」と話した。
太平洋戦争終盤、伊東さんの部隊からも、数多くの特攻隊が出撃した。
伊東さんは、「『俺は行きたくないんじゃ』っていうような、気安くは言わんですたいな。やっぱ、割とみんな、立派なもんじゃったです」と話した。
山本裕之大尉は、伊東さんに見送られた1人。
出撃の3日前に撮られた写真の裏には、「必中突撃」、「一瞬撃沈」の文字があった。
そして、帰ってくることはなかった。
戦争が激しさを増すにつれ、伊東さんが見送る仲間も、日に日に増えていった。
伊東さんは、「つらいですよ。もう負け戦になってから、どんどん、無残に死ぬのが、わかりきった戦争になったからね」と話した。
仲間が出撃する直前のことを、伊東さんは、今でも思い出すという。
伊東さんは、「『調子の悪いときは帰ってこいよ』やらね、見送る側はね、殺したくないと思うので、逃げ道ば作る気持ちが、やっぱりあったですな。『どうかやったら、無理せんで帰ってこい』っていう」と話した。
出撃する仲間にかけた言葉。
しかし、伊東さんは、「口には出さんですね。割と、そういうことは言わんで、もう諦めとった」と語った。
1945年6月、伊東さんが所属していた部隊は、戦力を失い、解散。
伊東さんの要務士としての任務も終わった。
伊東さんは、「僕が見送る立場になって、攻撃隊の総人数が、だいたい200人ですよ。亡くなったのが180人ぐらい。こんな悲しい戦争はね、約1年間でね、ほとんど死んでしもったちゅうことですな」と話した。
あれから70年。
伊東さんは、「(ニッポンはなぜ戦争をしたのか?)やっぱりあれは、ことの勢いが続いて、見るも無残な戦争。負けに負けて、負けながら、戦争が、どん詰まりで終わるというような戦争の経過たどるとは、決して思ってなかったんじゃないですかね」と語った。

伊東さんは、戦争が始まった理由は、指導者の甘い見通しだったと話した。
ではなぜ、もっと早く戦争を終わらせることができなかったのか。
無念の思いは、今も続いている。


 

WS004677戦後70年 特攻隊攻撃で父を失った英国人が遺族にたどり着きました。

08/10 12:56

 

戦後70年シリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
戦後70年を迎えた2015年、FNNは、世界各地で、さまざまな証言を取材しました。
7月に、FNNスピークでインタビューを放送したイギリス人男性は、父親を神風特攻隊の攻撃で亡くしました。
長年、「特攻隊の遺族に会いたい」と願ってきた男性の思いをかなえるべく、ご遺族にたどりつき、話を聞くことができました。

イギリス中部に住む、デービッド・ヒンキンズさん(70)。
海軍の下士官だった父、ジョージさんは、終戦間際の1945年、空母フォーミダブルに乗船中、神風特攻隊の自爆攻撃を受け、亡くなった。
デービッドさんは、その時、生後5カ月だった。
父の命を奪った日本兵を恨んだこともあったが、自らも父になり、考えが変わった。
デービッドさんは、「特攻隊員の家族に会いたいと思ったのです。それは、友情・平和・和解・許しのもとにです」と語った。
旧日本軍に関する資料を調べ、1945年5月9日、沖縄・宮古島の南に展開していたフォーミダブルに突入したのは、黒瀬順斎(よしなり)中尉が乗ったゼロ戦だったことを突き止めた。
当時、22歳だった。
順斎さんの12歳年下の弟が、今も健在だった。
埼玉県に住む、黒瀬宗義さん(79)。
宗義さんは「(戦死の知らせはいつ?)(戦死は昭和)20年5月9日なんですよね。そのあと、すぐだったと思うな。母親が泣き崩れたのと」と語った。
兄の遺品として大切に保管しているのが、ゼロ戦の破片。
15年前、イギリス海軍の関係者から返却された。
宗義さんは、「溶けてしまってますから、びょうの跡なんかもありますけどね。どこの部分か、よくわかりません。(手に取って、どんな気持ち?)やっぱり、惨めですよね」と語った。
そんな宗義さんに、デービッドさんの映像を見てもらった。
宗義さんは、「全然、お父さんを知らない時分ですものね。それでもこうやって、和解の気持ちで会いたいとおっしゃるんだったら、断ることはないと思います」」と話した。
宗義さんは、デービッドさんに、兄の特攻をわびた。
宗義さんは、「(デービッドさんへ)わたしの兄の特攻において、大事な、お父様を亡くされたということは、心からおわびしたいと思います。恨みのないような心を持って、おつきあいができることなら、幸いだと思っております」と語った。
宗義さんのメッセージを携えて、再びデービッドさんを訪ねた。
デービッドさんは、「驚きました。全く想像していませんでした。わたしも彼も、同じ気持ちでいたなんて。本当に信じられない…」、「黒瀬さん、今、あなたのメッセージを拝見しました。わたしたちは、愛する家族を失った痛みを知っています」と語った。
70年の時を経て、日本とイギリスに残された2人が知ったこと。
それは、戦争で愛する家族を失った悲しみに、加害者も被害者もないのだということだった。
デービッドさんは「(宗義さんへ)いつか、あなたに会って握手したいと思います。ありがとうございます」と語った。

70年の時を経て実現した2人の出会いは、イギリスでも、大きな反響を呼んでいる。
デービッドさんは、体調さえ許せば、2015年中にも日本を訪れて、黒瀬さんと面会する予定。


WS004679戦後70年 27歳で戦死した夫に94歳妻が手紙を書き続けています。

08/13 12:58

 

戦後70年を鍵に、今を読み解くシリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
およそ70年前に戦死した夫に、1日1通、手紙を書き続けている女性がいます。94歳の妻から、27歳のままの夫へ送られる手紙。そこには、亡き夫への愛情と感謝があふれていました。

福岡県に暮らす大櫛 ツチヱさん(94)。
ツチヱさんには、ある日課がある。
ツチヱさんは「あなたに話しかけているの。お手紙出しているの。『こうしていますよ』と、『あなた! あなた!』って」と話した。
70年前に亡くなった夫、仁九郎さんに手紙を書くこと。
ツチヱさんと仁九郎さんが結婚したのは、太平洋戦争開戦直前の1941年。
「恋人から始めようね」と声をかけたのは、仁九郎さんだった。
ツチヱさんは「だからまず、デートの場所は展覧会でしょ、美術館でしょ、それから映画でしょ」と語った。
しかし結婚から、わずか1年2カ月後、仁九郎さんに召集令状が届いた。
仁九郎さんが出征した、インドネシア領ニューギニア島。
そこにある日本軍の関連施設は、七十数年たっているため、木に覆われていた。
建物の壁には、穴が開いていて、機銃掃射の跡だという。
当時の日本軍の様子を知る人は「ヘビでも何でも食べました。わたしだって、ジネズミも食べましたよ」と語った。
仁九郎さんら1万人余りの部隊は、十分な水や食料も持たぬまま、無謀な行軍を続けた。
当時の様子を父から聞いた人は「多くの日本兵が、このあたりの木々に座り込んで、銃をこう、抱えたまま死んでいた」と語った。
ニューギニアに転戦する前に、仁九郎さんがツチヱさんに送った手紙の文面からは、家族を思う心がうかがえる。
手紙には「勝(息子)はもう1人で立てるか知らん。また写真でも撮って、航空便で送ってくれないか。内地は今が一番暑いときじゃないかな」とつづられていた。
こうしたやり取りも、その後、途絶えてしまった。
ツチヱさんは「戦死の公報をもらって、本当に泣き崩れた…。待っていたのに」と語った。
夫を失った悲しみを、忘れられずにいたツチヱさん。
2014年3月、何気なく空を見上げていた時に、再び亡き夫への手紙を書くことを思いついた。
ツチヱさんは「青い空に、ぽっかりぽっかり浮かんだ雲が流れて、南の空に行くのをじっと見ていたら、ジャングルの中で亡くなっている主人のことが、急に胸を突いたように思い出されてね」と語った。
こうして、ツチヱさんが毎日書き続けた手紙は、2015年、1冊の本になった。
本をきっかけに、講演の依頼も来るようになった。
ツチヱさんは、講演で「あなた! 幸せな思い出をいっぱいありがとう! あなたの愛の深さを倍にして、あなたにささげますからね、待っていてくださいね」と朗読した。
朗読を聞いた人は「涙が出ましたね。70年間も本当に、そんなに思って…」と話した。
70年の時を越え、今も亡き夫へ、毎日、筆を走らせるツチヱさん。
その思いについて、「戦争ってね、やっぱりどういう場合でも罪ですよね。悲しみがともなうっていうことですよね」と語った。

ツチヱさんは、仁九郎さんとの悲しい別れを乗り越え、終戦後、小学校の教師になり、多くの子どもたちを育てたという。


WS004680戦後70年 「回天」搭乗員が家族に「声の手紙」を残しました。

08/12 17:49

戦後70年シリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
太平洋戦争末期に使われた、いわゆる特攻兵器の1つに、人間魚雷「回天」があります。
大量の爆薬を積んだ魚雷に、1人が乗れる操縦席が設けられています。
出撃する際は、「回天」を潜水艦で運び、敵艦のそばで切り離します。
ここから、搭乗員は「回天」を操縦して、敵の艦艇に体当たりします。
搭乗員は生きて帰ることはありません。
この「回天」の搭乗員になった若者が、出征前、家族に宛てたメッセージが残っていました。
「声の手紙」ともいわれる音声には、家族への思いと、戦地へ行くことへの決意が語られていました。

千葉・松戸市の塚本悠策さん(80)。
ひと回り上の兄・太郎さんは70年前、人間魚雷「回天」の特攻隊員として出撃した。
悠策さんは「特攻隊に志願した。そうしたら、上司の方から、『お前は長男だから行かなくていい』と言われたんだそうです」と語った。
昭和18年(1943年)、太郎さんは慶応大学1年生だった。
太郎さんは、学徒出陣の壮行式のあと、両親と2人の妹、そして弟の悠策さんに声の手紙を残していた。
その言葉を収めたレコードが残っている。
収録時間は、2分30秒。
広告関係の仕事をしていた父親のスタジオで録音していた。
レコードには「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままな者を、よくもまあ。本当にありがとう。僕は、もっともっと、いつまでも、皆と一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、皆にうんとご恩返しをしなければならないんだ。春は、春風が都の空におどろい、皆と川辺に遊んだっけ。夏は氏神さまのお祭りだ。神楽ばやしがあふれている昔は懐かしいな。こうやって、皆と愉快に、いつまでも暮らしたい。けんかしたり争ったりしても、心の中では、いつも手を握りあって。しかし、僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ」と収められていた。
家族と過ごした日々を振り返る中で、「皆と一緒に暮らしたい」という言葉が2回。
生きていたいという思いからでしょうか。
しかし、そのあとは当時の思想に沿った内容に変わる。
レコードには「12月8日のあの瞬間から、われわれは、われわれ青年は、余生の全てを祖国にささぐべく、輝かしい名誉を担ったのだ。人生20年、余生に費やされるべき精力の全てを、この決戦の一瞬にささげよう。みんな、さようなら。元気でいきます」と収められていた。
家族への思いを振り切り、祖国のために死を選んだ太郎さん。
その最後を、同じ人間魚雷「回天」の訓練生だった、岩井忠正さん(95)が見送った。
岩井さんは、太郎さんとの面識はなかった。
しかし、出撃の前の夜について、岩井さんは「塚本太郎は、僕のところにやってきて、『岩井か?』、岩井だと。『僕も慶応なんだ』って。それで握手して別れたの。(なぜ会いに来たのかと思う?)今ならわかる。あす出撃して、死なないといけない。それでも、この世の中とのつながりは保っておきたい。そのつながりの1つですよ、同窓というのは。世の中、死ぬに決まっていても、この世の中とのつながりは失いたくない」と語った。
翌日、塚本太郎さんは、太平洋の海で敵の艦艇に突っ込んだ。
悠策さんは「家族と一緒にいたり、皆と一緒にいることが非常に好きな人だった。最後に1人で、ハッチが開かないという回天の中に入って、どういう心情だったかと考えると、またつらいですね」と語った。
家族にも深い悲しみを残した戦争。
日本はなぜ戦争をしたのか。
悠策さんは「とにかく孤立感があったんでしょうね。国際関係の中で、日本が。だからやむを得ないというのが、当時の雰囲気だった。わーっと行ってしまうのが非常に怖い」と語った。
21歳の若者が残した「声の手紙」。
当たり前の毎日がどれだけ尊いことなのかを、訴えかけているようにも聞こえる。


WS004678

戦後70年 英語教育の歴史から、「戦争」に迫りました。

08/13 02:01

 

戦後70年を鍵に、今を読み解くシリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
海外の理解や国際交流に欠かせない英語。
日本での英語教育は、明治時代以降に本格化しましたが、教科書は、徐々に戦意高揚の色が濃い内容となりました。
一方、街から英語が消えた太平洋戦争中、ある学校では、英語教育が続けられた事実もあります。
その歴史から、戦争に迫ります。

英語で書かれた古びた表紙。
中を開くと、「大砲」と「戦車」の英単語が並んでいた。
ある例文には、「Yes, I will die for my country.」、国のために死ぬという表現があった。
これらは、太平洋戦争開戦の前後に使用されていた英語の教科書。
英語教育史が専門の和歌山大学教育学部・江利川 春雄教授。
30年にわたって収集してきた数千冊の英語の教科書には、戦争の歴史が刻まれているという。
江利川教授は「この中に、戦争ごっことして入ってくるんですね。単語の練習をしながら、子どもを戦争に、知らず知らず刷り込んでいくという」と話した。
明治時代に本格的に始まった英語教育。
戦争に関わる表現が登場したのは、日清戦争に勝利したころ。
当時の教科書には、万歳で出迎えられる帰還兵の絵が描かれている。
しかし、英語を取り巻く環境は、太平洋戦争へ向かうにつれて変化していく。
英語は「敵性語」と見なされるようになり、街から英語の看板やレコードが、次々と消えていった。
戦時中に英語教育を受けた高林 茂さん(85)は「(髪の)パーマっていう言葉自体も英語ですから、使っちゃいけない。野球のストライクも、『よし』とかね」と話した。
高林さんは、戦時中に英語教育を受けていた数少ない1人。
通っていたのは、海軍兵学校だった。
高林さんは「当時、戦っていた敵国のイギリス、アメリカの言葉を勉強するということについて、海軍当局は、何の不思議もなく、英語を勉強しろと」と話した。
「敵性語」と、海軍人の教養としての英語。
一般国民の生活から排除された一方、エリート教育では続けられたという、2つの側面があった。
一般の教室に英語が戻ってきた戦後、英語教師として教壇に立った祐本寿男さん(92)。
初めての授業で、子どもたちに、ある質問をしたという。
祐本さんは「『英語の好きな人?』って、1人も手が挙がらない。『英語の嫌いな人?』って言ったら、全員がバーッと勢いよく、元気よく手を挙げた」と話した。
「英語が嫌い」と話す子どもたちは、学ぶ理由を「戦争に負けたから」と答えた。
わら半紙に、青いインクで刷られた教材。
教科書はなく、祐本さんの手作りだった。
ついこの前だった敵国だったアメリカの観光名所、ナイアガラの滝を冒頭に取り上げた。
子どもたちに変化が現れたのは、1週間もたたないころだった。
祐本さんは「教室へ行ったら、『英語好きでーす!』と、みんな言ってくれた。だからわたしは、うれしさが込み上げてきた」と話した。
国境を越えてつながる喜び。
英語教育が本来の姿を取り戻した瞬間だった。
日本は、なぜ戦争をしたのか。
当時の授業の記録には「視界の狭さ、慢心、うぬぼれ」と書かれていた。
祐本さんは「英語を勉強するということは、グローバルな世界市民としての、欠かせられない教養じゃないでしょうか。世界を知らないために、陸軍の方が暴走しちゃったんじゃないかと」と話した。


WS004694 WS004693戦後70年 戦争に翻弄された教師と生徒を取材しました。

08/07 01:08

 

戦後70年シリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
太平洋戦争へと突き進む中、思想弾圧が行われた日本。取り締まりは、学校教育にまで及びました。戦争に翻弄(ほんろう)された教師と生徒たちを取材しました。

薄い紙にびっしりと書き連ねられた文字。
「たたく、ける、座らせる、脅かす。そのうちに自分も妙な気持ちになり、手記を直され、教えられているうちに、赤くなっていた」と書かれていた。
「赤くなっていた」という言葉は、特高の筋書きどおりの人間へと仕立てられていくことへの心の叫びだった。
北海道綴方(つづりかた)教育連盟事件。
1940年から翌年にかけて、北海道で50人以上の教員が、共産主義教育をしようとしたなどとして、治安維持法違反で、次々に逮捕された事件。
逮捕された教員の1人、坂本 亮さんは、釧路地方の小学校で、情熱あふれる授業を行っていた。
坂本さんの教え子だった、高橋芳子さん(90)と飯利芳江(91)さん。
今も顔を合わせるたびに、坂本さんが作ったクラスの歌を歌っている。
飯利さんは「生徒思いだったね」と話した。
大柄な体格に、縮れた髪が特徴的な坂本先生。
生徒から人気のあったのが、「綴方教育」という作文の授業。
高橋さんは「自分の生活を見つめる、あれを書いてと、素直に書いていったらいいよって」と話した。
坂本さんのクラスの作文文集には「母さんは『そして卒業したら、お前をどっかに子守にやってもいいか』と言いましたから、これも『うん』と返事をした。母さんはさみしそうだったが、また安心したようでした」と書かれていた。
しかし、高橋さんたちが卒業後、突然、坂本先生は教室から姿を消した。
「綴方教育」が、貧困などの課題を与えて、階級意識を醸成したとして、連行された。
高橋さんは「何で、何で、何でという気持ちだけでしたね」と話した。
飯利さんは「それを聞きたいとか、集まってどうしようかという、そういうことをしてもだめ」と話した。
北海道・釧路市にある、当時の釧路刑務所。
古びた高い壁が続いている場所に、当時、坂本さんは勾留されていた。
懲役2年、執行猶予5年の有罪判決。
勾留されたまま、すでに2年半が過ぎていた。
坂本さんの息子・宏さん(67)は、父親の死後、書庫で事件に関係する資料を目にした。
宏さんは「この場所に、この空の段ボールがある場所に、そういったものを」と話した。
保釈後、教壇には戻らなかった坂本さん。
当時を知らない宏さんも、家族の中で、触れてはいけない何かを感じてきた。
宏さんは「何か、おやじは特異な経歴を持っているというのは、うすうす感じていました。ただ、その事件の中身については、あまり触れるなよという雰囲気がありましたので」と話した。
坂本さんは、事件について、ほとんど語らなかったが、宏さんは、時々こぼしていた言葉を覚えている。
宏さんは「『役人の言うことは、あまり信用するものではない』とか、『国の言うことなんて、そんなに簡単に信用したらだめだ』というふうな、警句的なことは、常々、折々に触れて言ってはいました」と話した。
教員や教え子たちの間で、終戦後も続いた沈黙。
高橋さんは「(なぜ、戦争するという方向に走ってしまうのかというのを、戦争を体験された方からすると、どう思いますか?)やっぱり愚かなことでしょうね」と話した。
飯利さんは「恐ろしいことですよ」と話した。
高橋さんは「長いものには巻かれてしまうわけでしょ。いくら自分の意思が強くってもね」と話した。


 

「<FNN戦後70年企画>ニッポンはなぜ戦争をしたのか?」を、見ました。

この企画の最後に、「なぜ日本は戦争をしたのか?」戦争体験者にと聞くのですが、天皇の「て」の字も出てきません。

これこそが、天皇が今も日本の実質的な元首である証拠なのです。

もちろん戦争体験者のそのような発言を編集している可能性もあるかもしれませんが、天皇の戦争責任について言及する「戦争体験者」はいない構成で番組は作られています。

「戦争とはいけないものなんだ。」ということを刷り込み、そして「天皇」と戦争は関係のないということが番組では暗黙に言いたいわけです。

そして、現代の流れである、「『役人の言うことは、あまり信用するものではない』とか、『国の言うことなんて、そんなに簡単に信用したらだめだ』と、国への反発を、国を運営している支配者層の手先である「マスコミ」が生み出し、我々の怒りを増幅させる流れを作る動きも見て取れます。

つまり、私がいつも言っている、右も左も同じ黒幕と言うことです。

そしてこれらは ↓ に繋がっています。

戦争をし、NWOを進める天皇が「戦争はあってはならない」と広報する目的とは? ~アメリカは「ロスチャイルド・天皇」による未来のNWOシステム完成への実験場


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<FNN戦後70年企画>ニッポンはなぜ戦争をしたのか? ~天皇の「て」の字も出てきません」への4件のフィードバック

  1. ココ

    天皇のての字も出て来ませんし、天皇は安倍に反対して、平和主義者を装っています。いいかげんにしてほしいですね。さゆさんのおっしゃる通り、右も左も同じ、賛成も反対も同じなのです。国民を納得させるお芝居だと思います。先の大戦でも一番大儲けしたのは、誰ですかっていう話です。こういう茶番劇はもうたくさんですよ。戦争で大儲けする人々に、もう騙されませんよ。国民も少しずつ成長していますよ!!目が肥えて来ています。

  2. 権太

    天皇(お国)のために、と洗脳(戦争を強要)されていたという事実が、キレイさっぱり抜けてますね。

  3.  左右両方の勢力に援助してどちらに転んでも利益を得るという手法はロスチャイルドのお家芸ですね。
     正反合のアウフヘーベンのやり口と、自作自演の事件・犯罪のどさくさにまぎれた駆け込み的な悪事の数々(改悪法を通す、インサイダーでの株儲け、殺人)は、いつも変わりませんね。
     原爆投下も天皇の金儲けと陸軍(他国の財宝強奪と麻薬犯罪組織)の尻尾切りが目的の一つと言われています。原爆も歴史的巨視観からすると、天皇の十字架の意味合いを付加する役割もありそうですね。人類の贖罪者としての天皇。そして本当の利益享受者をカムフラージュするためなのかも。
     赤十字船を使って軍需品を運ばせて戦争継続を可能にさせます。今の日本赤十字社の名誉総裁は皇后です。原爆の原理も日本の研究者が世界で最初に論文としてまとめていたという話もあるそうです。日本→ドイツ→アメリカ→被爆国・日本の図式は何か意図が隠れていそうです。また、広島原爆の犠牲者に6~8万人(資料不在のため実数不明)の陸軍第二総軍が語られません。なぜ原爆資料館にもこれまでのメディアも扱わないのか、ずっと疑問でした。敗戦革命という思想や大陸での麻薬経済の隠蔽などもあり、第二総軍の軍事演習を8月6日の朝に行わせ全滅させるという人非人的行為をするのは、原爆を投下したパイロットもでしょうが、人々を草民としか見ない天皇にとっては3.11の犠牲者を出すことと同様、なんでもないことだったのでしょう。8月6日まで原爆投下にアメリカ側へ「待った」をかけていたのは、ほかならぬ天皇でした。
     日航機墜落事故の慰霊も30年経ち、風化するかと思いきや、御霊としての520体というメディアによる喧伝も、裏の意味がありそうです。世の中で一番の強者は被害者づらをした加害者と通貨発行権所有者です。その両方であれば無敵で、それが現在の「ロス天」なのでしょうか。
     

  4.  追加
     ×草民 ○民草  でした。
     
     アルゼンチン経由で大陸から収奪した財産を戦時中、スイスの銀行に移し、それが戦後没収されないよう回答を待つために原爆投下とポツダム宣言の受諾が遅れたとも言われています。
     スイスといえばロスチャイルドですね。スイスと赤十字と国際金融が戦争を演出したことが分かれば、ヒトラー・チャーチル・ルーズベルト・スターリンの手足に傀儡糸が見えて滑稽にすら思えます。なぜか天皇には操り糸が感じられないのはなぜなのでしょうね。

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